身装文献
文献番号 01_AR031028
著者名 斎藤寛海/サイトウ ヒロミ
書名・論文名 ダマスクスにおけるフィレンツェ毛織物の価格
掲載誌名 イタリア学会誌 39
発行年月日 1989 (10)
掲載ページ pp.29-61
OWC EI
地域・民族名 イタリア;バチカン市国;サンマリノ
特定地域名 ダマスクス;フィレンツェ
抄録 中世後期の地中海世界における商品交流の一環として、西欧の毛織物がレヴァント(本稿ではマムルーク朝領土を指す)に輸出されたが、中でもフィレンツェの毛織物は重要な地位を占めていた。ところが、このフィレンツェ毛織物の価格について、エリアフ・アシュトールと星野秀利、両氏の見解が対立している。対立の直接の原因は、ダマスクスでヴェネツィア人によって作成された記録にみられる、貨幣単位の省略形である「D」を、前者はドゥカート(グェネツィアの金貨。以下、DCはその略記)、後者はディルハム(ダマスクスの銀貨。以下、DMはその略記)と解釈することによる。とはいえ、この解釈の相違は、両者の研究主題の相違から間接に影響を受けている、ということは否定できない。両者の主題の接点について要約すれば、こうである。アシュトール説。11・12世紀には、レヴァントの毛織物は、この地方の需要を満たしたのみならず、南欧にも輸出されていた。西欧毛織物のレヴァントへの輸出は、十字軍時代にはじまるが、14世紀末から15世紀初頭には、その輸出は, まさに「ダンピング」(価格の急落した製品の大量輸出というほどの意味)の様相を呈することになる。長期にわたる西欧毛織物工業の発展の一般原因は、大規模経営、技術革新、良質原料の確保を実現したことである。一方、レヴァントの毛織物工業では、これとは対照的に、重税や権力による財産没収によって私企業が弱体化し、スルタンやマムルークの経営に特権が付与されて自由競争が排除された結果、技術の停滞が深刻なものとなった。また、羊毛や染料などの良質原料の入手も困難であった。さて、ダンピング期には西欧各地の毛織物が輸出されたが、安価な製品の大量輸出がこの時期以後の特徴となった。西欧毛織物の価格の低下により、価格競争力をもたないレヴァントの毛織物工業は、壊滅的な打撃を受けることになった。同時に、相対的に高価となった麻・線織物から、安価な輸入毛織物への消費の移行がみられたのである。レヴァントに大量に輸出されたフィレンツェ毛織物も、この毛織物ダンピングの一環をなしており、その大部分は安価なものであった。但し、アシュトールは、西欧毛織物工業の長期にわたる発展と、上記の時期におけるその製品価格の急激な低下とが、どのような関係にあるのかについて、意識して整理しているとは思われない。というのは、後者については、その現象を価格の数値によって示すのみで、上記の西欧毛織物工業の発展の一般原因とは別の、それに固有の原因については、何も述べてはいないからである。なお、アシュトールは、毛織物は西欧からレヴァントへ輸出された商品の中でも代表的なものであるとみなしており、他の商品についても、それと同様な傾向がみられたという。したがって、西欧毛織物の価格の低下と、レヴァント毛織物工業の衰退とは、西欧とレヴァントの経済構造全体の動向を象徴していたということになる。星野説。14世紀中葉まで、イタリアをはじめとする地中海各地の毛織物市場では、一級品はフランドル毛織物、二級品はイタリア毛織物であったが、後者の中では、フィレンツェ毛織物よりもロンバルデーア毛織物の方が高級であった。14世紀におけるフランドル毛織物工業の危機を背景に、高級原毛であるイギリス羊毛のフランドルヘの輸出と、フランドル毛織物の地中海市場への輸出とに活躍していたフィレンツェ商人は、イギリス羊毛を母国に輸入し、それを原料とする高級毛織物の生産をはじめた。14世紀後半には、フィレンツェ毛織物の高級化は一層進展し、その一級品はフランドル毛織物の一級品に匹敵するようになり、フィレンツェ毛織物は地中海の高級毛織物市場を制圧したが、一方では、14世紀初頭まで生産していたような下級毛織物の生産は消滅した。さて、14世紀末以降、フィレンツェ毛織物は、イギリス羊毛を原料とする第1扱のサン・マルティーノ毛織物と、それ以外の羊毛を原料とする第2級のガルボ毛織物とに製品の標準化が進んだ。1408年に法的規定を受けたこの両種の標準製品の生産は、16世紀前半まで継続することになる。15世紀、とくにその後半、フィレンツェには、市民の消費用に幾種類かの毛織物が輸入されたが、それは標準化された輸出向けの製品の生産が優先されたためと思われる。遅くとも1420年代までには、フィレンツェ毛織物工業は不況に陥っていたのであるが、この時には、ガルボの下級品生産地区の衰退が顕著であった。この不況から脱出するのは、トルコ市場が開拓された15世紀後半である。この市場ではガルボが消費されたので、フィレンテェ毛織物のガルボ化が進んだ。結局、14世紀後半から15世紀前半にかけて、フィレンツェは高級毛織物の生産に特化していた。さて、誤解を恐れずに単純化していえば、14世紀末から15世紀初頭にかけての時期について、アシュトールは、フィレンツェ毛織物を含む西欧毛織物の価格の低下を、星野は、フィレンツェ毛織物の高級化を、それぞれの主題としている。両者のこの視角の相違が、間接に、上記のDをめぐる解釈の相違を生みだしている、という面があることは否定できない。とはいえ、この解釈の相違が生れる直接の原因は、あくまでも、Dの解釈それ自体のなかにある。本稿の目的は、両者の解釈を再検討して、問題のDがドゥカートなのか、ディルハムなのかを明らかにし、また、ダンピングがあったのか、なかったのかについて検討することである。
身装概念 AQ014.0:[毛織物]
CP129:[価格;上代]
服装専門分類 CQ0:[経済・流通一般;布地]
リンク 国立情報学研究所 CiNii